にあんちゃん
※記事掲載にあたって
@ 家族のこと
A 炭鉱と学校のこと
B 生活のこと
C 末子さんの人がらについて
D にあんちゃん(高一さん)の人がら
E ひとまず、おしまいにしましょうか
※ もっと詳しく

にあんちゃん」という本を知っていますか?

「読んだことがある」「本を見たことがある」「聞いたことがある」という人、いますよね。
本
 この写真の本です。何種類か出版されています。読んだり、見たりしたことがあるのはどの本でしょうか?

 この本のことを紹介したいのです。それには、いくつか理由があります。

 理由のひとつは、この本を書いたのが、みなさんと同じ年ごろの小学生だということです。本といっても、なかみはノートに書き続けられた日記です。小学校3年生から5年生まで、それから中学1年生のときに書かれた日記です。

「小学生の日記かあ」と思うのは、ちょっと待ってください。もっと大切なことがあるから、紹介したいのです。
末子さん
 この本を書いた小学生は、安本末子(やすもとすえこ)さんといいます。この写真の人です。5年生のころの写真です。

 末子さんは、何と入野小学校の子どもでした。6年間、入野小学校で勉強し、入野中学校(今の肥前中学校)に1年生まで通いました。もう50何年も前のことです。でも、こんなに近くにいた人なのです。

 小学生の末子さんは、とても貧しくてつらい生活をしながらこの日記を書き続けました。その様子と末子さんの気持ちを知ってほしいのです。

 では、本のなかみについて紹介します。

@ 家族のこと  

 末子さんの家族は、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、2番目のお兄さん、末子さんの6人でした。末っ子だったので、末子になったのかもしれませんね。「にあんちゃん」というのは、2番目のお兄さんのことです。とてもなかよしの兄妹でした。

 兄弟は日本で生まれたのですが、安本さんのふるさとは、実はもともと日本ではありません。出身は朝鮮全羅南道宝城郡というところです。現在の韓国からやってきたのです。前は豊かな農家だったのですが、借金の保証人になったせいで貧乏になってしまい、生活を何とかしようと日本にやってきたのです。

 朝鮮から日本にやってきた人たちには、安本さんの家のように生活のためにやってきた人たちと、炭鉱などで働かせるために無理やり連れてこられた人たちがいます。炭鉱の事故や病気で亡くなってしまい、ふるさとに帰れなくなった人たちもたくさんいるのです。

 家族が生活していたのは、佐賀県入野村鶴牧というところです。(今は、唐津市肥前町鶴牧です。)ここには「大鶴炭鉱(おおづるたんこう)」がありました。かなり大きな炭鉱で、多いときには家族もふくめて四千人の人がくらしていたそうです。病院やお店があり、入野小学校の分校(大鶴分校)もありました。お父さんはここで、石炭を掘る仕事をしていたのです。臨時やといだったので、決して豊かな生活ではなかったはずです。でも、貧しくても家族みんなくらしていたときは、きっと幸せだったでしょうね。

 ところが、不幸が家族をおそいます。

 末子さんが3才の時、お母さんがなくなり、その後、末子さんが3年生のとき、今度はお父さんが心臓まひでなくなってしまいます。家族は兄弟の4人だけになってしまったのです。いったい、どうなるのでしょうか。

 末子さんの日記は、お父さんがなくなった後から書き始められています。このとき、末子さんは小学校3年生でした。

A 炭鉱と学校のこと 

 末子さんは小学校3年生まで、大鶴分校に通っています。そのころの大鶴分校は、3年生までで6クラス、300人近い人数の分校でした。分校とは思えないほどの大きさです。入野小学校も星賀分校と大鶴分校をあわせて、千人をこす人数ですからとても大きい学校でした。

 こんなに大きな学校だったのは、大鶴炭鉱に働く人の数がとても多かったからです。大鶴分校は炭鉱がなくなるときに、いっしょになくなってしまいますが、その年には入野小学校全体で350人も人数がへっています。

 両親がなくなってしまい、悲しくてたまらない安本兄妹ですが、とにかくみんなで力を合わせて生活していかなくてはなりませんでした。
昭和二十八年<一月二十二日>
 きょうがお父さんのなくなった日から、四十九日目です。
 夕がたおがんだとき、私はお父さんに、
「さようなら、お父さん、さようなら」といいました。
 なみだが、ほおをこぼれました。
 これまでは、お父さんと上のお兄さんが働いていのですが、これで働くのはお兄さんだけになってしまいました。末子さんは、学校が大好きでした。勉強も大好きでした。でも、生活が苦しいために、とても苦労しています。
<一月二十六日>
 兄さんはいま、三年もまえから、すいせんボタのさおどりをしてはたらいていますが、とくべつりんじなので、ちんぎんがすくないのです。ちんぎんというのは、はたらいたお金のことです。それが、ふつうの人より、だいぶすくないのです。どのくらいすくないのといったら、ざんぎょうを二時間しても、なんにもならないというほどです。
<二月十二日>
 べんきょうもおわり、帰りの時間になってから、先生が四年生のりかの本をもってこられ、「あした、お金をもってきたじゅんに、この本をわたします」といわれました。
 そして、かきつけを一まいもらいました。(いくらやろか)と思いながら、かきつけの紙をひらいてみると、「一五九円」と書いてありました。
 私は、あまり高いので、びっくりしました。それから、お金がもらえるかもらえないかが、しんぱいになりました。
 夕ごはんのあと、兄さんにかきつけの紙を見せると、
「四年は、休んでしまえ」といわれました。
「ばってん、行きたかもん」といって、なきそうにすると、百六十円くださいました。
(なんでこんなにお金がいるのだろう)と思いながら、私はふでばこにお金をしまいました。
 みなさんは、教科書のお金をもらえないかもしれないと、心配したことがありますか? このころは、教科書はもらうものではなくて、自分でお金を出して買うものだったのです。末子さんはまだ3年生なのに、ずっとお金の心配をしなくてはなりませんでした。一番末っ子なのに、家の生活を他の兄姉と同じように考えていたのですね。それでも、末子さんは学校が大好きだったということが、いろんなところに書いてあります。

 末子さんは4年生から、入野小学校の本校に通うことになります。大鶴分校は3年生までなのです。本校まで3キロか4キロあるでしょうか。どんな天気でも、歩いて通っていたのです。

 末子さんが4年生のとき、にあんちゃんの高一(たかいち)さんは6年生です。「にあんちゃん」という呼び方は、お父さんが考えた呼び方なのだそうです。二人はとてもなかよしでした。というより、お互いのことをとても思いやっていたことが、日記のあちこちで分かります。
<四月六日>
(四年生になって、学級の自己しょうかいで)
 だんだん、じゅんばんが進んで、私のばんがきたので、「安本末子」というと、
「そいぎ、こんど六年生になる安本高一とかいう人のいもうとさんじゃなかと」ときかれたので、「はい」とへんじをすると、先生は、きゅうになつかしそうに、
「歌のじょうずで、話のじょうずかとん、あんたしらんね」といわれました。
 私はそれをきくと、すっかりうれしくなりました。
<四月八日>
(自分のべんとうを、にあんちゃんに持ってきたけど、いなかった。)
 私は、私がひもじいなら、にあんちゃんだってひもじいだろう。しかも男だからとびまわっているし、そのうえ、六年生なので帰りがおそいから、なお、はらがへるだろう。四年生は、おそくても三時には、家に帰れるからいい、と思って、持ってきたのです。
<四月九日>
 にあんちゃんがきたので、
「末子たべんから、べんとうやるけん、とりおいで」というと、
「そがんことせんで、おまえたべれ」といってしかられました。
 にあんちゃんだって、ひもじいのです。それでも、私を思ってたべないといわれたのです。にあんちゃんがたべなかったので、私もたべませんでした。
 こうして何とかいっしょにがんばっていた安本兄妹ですが、それからもつらい出来事が続きます。お兄さんが働いていた炭鉱は、だんだんと景気が悪くなって、首切りの話が出てきます。お兄さんは臨時(りんじ)やといなので、一番先に首を切られそうです。

 ちょうどこのころ、日本は石炭から石油へとエネルギーが変わっていく時代です。その影響が大鶴炭鉱にも出てきたのです。
<八月二十九日>
 ろうどう組合の前を通ると、赤はたが二本立っていました。首きりはんたいの赤はたです。会社はいま、石炭がうれないからといって、はたらいている人の首を、切ろうとしているのです。
 じむ所の前に行くと、組合の人が、えんぜつしており、それをおおぜいの人が、立って聞いておられました。
 三百七十五名。兄さんが、切られはしないかと、おちおちしていられません。
<九月八日>
 とうとう、兄さんは、あしたから仕事に行かれないことになりました。首を切られたのです。会社は、りんじ(臨時)から、まっさきに首を切ったのです。
 これから先、どうして生きていくかと思うと、私はむねが早がねをうって、どうしていいかわかりません。ごはんものどにつかえて、生きていくたのしみがありません。
 兄さんはしばらく、船のつみこみの仕事などをしますが、結局、大鶴を出て仕事をさがすことになりました。お姉さんの吉子さんも仕事をさがし、佐賀で子守りをすることになります。にあんちゃんと末子さんは、二人残って大鶴でくらすことになったのです。

 末子さんはこのころ、学校を1ヶ月あまり休んでいます。学校が大好きだという末子さんがなぜなのでしょう。行きたくなかったのではありません。行けなかったのです。
<九月十九日>
 昼は、(もう、五日も学校を休んだから、先生がこられるかもしれない)と思うと、心配で、おろおろするばかりです。
 夜は、ためいきがでてきます。なんでもなく、でるのです。
 学校を休んでいるわけは、本代がないためです。三百三十円。にあんちゃんの分が、二百六十円。あわせて五百九十円。
 二十五日まで、たべていかれるかどうかと心配しているじょうたいなのに、どうして、五百九十円ものお金があるでしょう。
<九月二十一日>
 学校へ行きたくて、気が気でありません。
 お金がないのが、かなしくってたまりません。けれども、どうすることもできません。
 学校へ行けないなやみが、はりさけるように、たまっています。ごはんのあじも、ぜんぜん、わかりません。かなしみがつまって、のどをとおりません。
 うけせんが、うそもかくしもない、でんぴょう(伝票)みせてもいい、たった二千四百円。どうやって生きていくのでしょう。
 こんなじょうたいが1ヶ月ほど続いて、ついに先生達が心配して家にやってきました。本代を学校で何とかすることにして、学校に行けることになりました。学校も勉強も大好きな末子さんです。とにかく良かった。でも、兄さん、姉さんは仕事でいなくなり、にあんちゃんと末子さんは宮崎さんというよその家にあずけられることになりました。

B 生活のこと

 これまで紹介したところでも、末子さんたち兄妹の生活がどんなに大変だったか分かります。両親がなくなってしまっただけではなく、お金のこと、家のこと、食べ物のこと、考えられないくらい大変です。おべんとうのことも、そうです。貧しかったので、おべんとうを二人分、作れなかったのです。

 末子さんは、ほかにも大変な生活のことを日記に書いています。
<五月二十一日>
 二十さいのわかい青年で、兄さんのようなぼろふくをきている人は、見たこともありません。たった一まい、安いジャンパーとズボンを、よそいきとして、おしいれにしまっているだけです。しごとから帰ってきても、きがえるふくがないので、ただ、シャツとズボンだけきがえています。ほんとうに、くるしい一家です。
<六月二十二日>
(おきゃくさんが来るので、ねえさんがぜんざいをつくっている。)
 私は、(あまりおきゃくさんがこられないほうがよい)と思いました。家のきたなさくらいならよいが、第一、ぜんざいをついであげるちゃわんがありません。どんぶり一つだけあるのです。兄さんとおきゃくさんと二人でたべるのです。そしたら兄さんは、どれで食べられるでしょう。
 びんぼうはびんぼうらしく、じょうひんぶらないでいるのが一ばんいいのです。私たちの前では、べんとうばこでたべようが、かまをかかえて食べてもなんでもないけど、いくらなんでも、他人の前では、そんなにしてたべられません。
<七月十六日>
 朝、私がおきたときには、にあんちゃんは、研究はっぴょうに、一ばんのバスで、有浦小学校へ行ってしまって、家にはおりませんでした。
 昼、ねえさんと、ごはんをたべながら、(にあんちゃんは、べんとうをたべるとき、麦ばっかりのようなごはんだから、はずかしいだろうな)と思いました。
 だが、いくらびんぼうでも、学校からえらばれて、よその学校にまで行くのなら、人目があるから、米めしを持っていくのがあたりまえでしょう。
 にあんちゃんの、くろっぽい麦めしをたべているすがたが、目にうかんで、なんだか、かわいそうになって、ごはんの味がなくなりました。
<十月二十日>
 先生が、「りょこうにいかない人は立ちなさい」といわれたので立ちました。三人でした。
(「先生がなんとかします」と言われたのにたいして)
 おんがえしは、山ほどしたいのですが、このじょうたいではしかたがありません。言葉はうれしいのですが、まあ、ふくなどはどうでもいいのですが、くつがありませんから、先生の言葉はありがたくうけとりましたが、りょこうにはいかれません。
 想像してください。「家にちゃわんが、どんぶり一つしかない」「べんとうばこで食べている」「ぽろぽろ麦ごはんばかり食べている」「ふくはどうでもいいけど、くつがない」どうですか? 想像できますか?

 ほかにも、生活のことで末子さん兄妹がどんなにつらい思いをしていたか、よく分かる場面がたくさんあります。

C 末子さんの人がらについて

 末子さん兄妹の生活がどんなに大変だったか、どんなに苦労をしているか、だんだん分かってきたでしょう。その様子を想像するだけで、かわいそうになってしまいます。みなさんも、きっとそうでしょう?

 でも、何だか、あたたかい感じもしませんか? 貧しくて、つらい生活なのに、読んでいてどこかに、やさしい、あたたかい感じがするのです。

 末子さんは日記の中で、だれに対しても「敬語(けいご)」を使って書いています。
・帰りの時間に、先生が、青いはねを持ってこられました。
・すると、ねえさんも「ほう、そらよかったね」といって、うれしそうなかおをして、よろこんでくださいました。
・そこへおばさんがきて、「おりこうやっけん、けんかせんもんね」といって、とめてくださったので、けんかは、とまりました。
・千晶さんは、私をふりかえって、「お母さんが、花なえをあげるてやっけん、帰りにとりにおいでね」と、小さな声でいわれました。
・(美佐子さんは)にこにこしながら、私の方へかけてきて、「ほら」といって、みかんを二つだしてくださいました。
 このていねいな書き方はいつも変わりません。それが、やさしい感じになっている理由です。それは、こういう文章の書き方をしているというより、末子さんの人がらが、こんなやさしい文章を書かせていると思うのです。

 それから、「にあんちゃん」に書かれた場面は、どれも名場面なのですが、その中でも特に絶対にしっかり読んでほしい場面があります。
昭和二十八年<四月十三日>
(くつがぬすまれる事件があって)
 まもなく、くつどろぼうはつかまって、つれられてきました。ふたりでした。ひとりは、四年二組の人で、もうひとりは、五年生の人でした。ふたりとも、うなだれてないていました。
 とるときも、びくびくとふるえながらとったことでしょう。その上、見つかってつかまったときのこころは、どんなにこわかったことでしょう。私は、かわいそうでたまりませんでした。
 末子さんは、くつをぬすんだ人をにくむのではなく、「かわいそうでたまりません」というのです。きっと、なぜ、くつをぬすまなければならなかったのか、考えたのでしょう。家が金持ちで、くつくらい、いつでも買ってもらえるのだったら、ぬすむ必要はないのです。貧しい生活をしている、くつどろぼうのことを考えたのでしょう。

 このとき、末子さんは小学四年生です。
昭和二十九年<四月二十三日>
(ふろに母娘三人のこじきが来ていて、悪口を言われていた。)
 私は、自分がびんぼうのせいか、このような人を見ると、むねがはりさけそうでなりません。すがたやみなりがきたないばっかりに、なんでもない人たちから、きらわれ、にくまれるのです。おなじ人生でありながら、人からにくまれ、ばかにされて生きるとは、どんなにつらいことでしょう。
 こじきになろうというくらいのことですから、いままで、そうとうのくるしみや、かなしみがあったことでしょう。
 死んでしまった方がましだ、と思ったことはないでしょうか。きっと、なんどもなんども、あったことでしょう。でも、生きてきたのです。

 私は、三人のでて行ったあとを、かなしい心で、じっと見つめていました。
 今夜は、どこでねるのでしょうか。なにか食べるものはあるのでしょうか。
 あしたはあしたで、またどこかで、みんなからにくまれたり、つめたくされたりするのかと思うと、かわいそうでたまりません。
 この日記は、五年生になってからのものです。四年生での「くつどろぼう」と同じものの見かたで、この母娘を見ています。いつも、弱い者の立場で見ています。末子さんは「自分がびんぼうのせい」というのですが、そうではないと思います。だって、びんぼうだから、かえって人をにくむということもあるはずです。

 やっぱり、末子さんの人がらなのだろうと思います。

 こんなにすてきな文章を書く末子さんですが、どんなに優秀な成績をとったり、良いことをしても、いばったところがないのです。それどころか自分のことを、バカだのボンクラだのと書いたりするんですね。
昭和二十八年<二月五日>
だけど、このげきにでる人は、四人でいいのです。「子うさぎ」「子りす」「やぎのおばさん」「くまのおじさん」これだけです。たったこれだけしかいらないのに、私のようなものがなれるはずがありません。
昭和二十九年<三月二十三日>
 春のにおいを、そよ風がのせて、きょうは、そつぎょうしきの日でした。
(にあんちゃんは、成績が良かったので、ひょうしょうされました。)
 私は、勉強もできませんし、こじきのようなかっこうもしていますから、もしもにあんちゃんがいなかったら、いや、いたとしても、にあんちゃんが勉強ができなかったら、この一年も、だれからでも、いじめられたり、にくまれたりして、すごしてきたでしょう。
 けれども、にあんちゃんが、勉強ができるおかげで、私は、だれからも、ばかにされたり、いじめられたりしたことは、いっぺんもなく、いま、ゆっくりと、四年生をそつぎょうできるのです。

D にあんちゃん(高一さん)の人がら  

 末子さんが「にあんちゃん」と呼ぶのは、2番目のお兄さん、高一さんのことです。この高一さんはどんな人だったのでしょうか? 末子さんの日記には、高一さんのことがたくさん出てきます。そつぎょうしきの話で、高一さんはとても勉強ができたことが書いてあります。
昭和二十九年<三月二十三日>
 お金があろうと、なかろうと、一日も学校は休まず、家に帰ってからも、二、三時間はかならず、たとえ十時がすぎようと、よ習ふくしゅうをしてねられ、しけんは、たいてい百てんばかりで、八十二てんがさいていというような、りっぱなせいせきを、持って帰ってくるのです。
 高一さんは勉強をとても大切なものだと考えていました。貧しくてもつらい生活でも、勉強をいいかげんにしてはいけないと考えていたようです。自分ががんばるだけではなく、そのことを妹の末子さんにも厳しく教えています。
<五月八日>
 学校へ行く前に、「女のくせ、あそばんでかえってこいよ」と、にあんちゃんからひどく注意をうけました。「うん」といって、家をでたのです。
(でも、おそくなった。)
 私より一足おくれてかえってきたにあんちゃんが、「末子もいまかえってきたとか」といわれたので、「うん」とほんとうのことをいいました。「朝なんていうとったか」というと、ゴツンと頭をたたかれたのです。なにかもんくを言いたくて、はらがむかむかとたったが、私がわるいので、なにも言いませんでした。
<五月十三日>
 算数の時間、先生は、私たちのならっていない、むずかしい問題をだされました。
 毛利あきらさんが一番はじめに行かれましたが、ペケで、二番目に、私が先生の前に行くと、「おう、おうたぞ」という、永代さんの声がうしろでひびきました。
 たしかな自信はありましたから、その言葉が、なんとなく、いい気持ちでした。
 四年生の時、にあんちゃんからのおしえが、せからしい(やかましい)と、あまりむずかしいので、ならう時は思っていましたが、きょうは、よ習のありがたさが、しみじみとわかりました。
 にあんちゃんは、妹の末子さんにたいして、どんな気持ちをもっていたのでしょう。妹がかわいいからといって、かんたんに優しくするのではなくて、力をつけてりっぱになってほしいと思っていたのでしょうね。だからこそ、厳しいとも言える教えをしていたのだと思います。自分もがんばるから末子もがんばれということだったのです。

 もうひとつ、高一さんについて言っておきたいのは、その行動力です。勉強についてもそうですね。「やる」と決めたからには、何が何でもがんばるのです。

 高一さんは中学一年の夏休みに、高串で「いりこ製造」のアルバイトをしています。かんたんな仕事ではなく、かなり重労働です。それでも弱音をはかずにがんばっています。そして何と、そのお金で「東京へ行く」というのです。もちろん、東京へ行ってどうするという、あてがあったわけではありません。実際に、つれもどされていますから。それでも、この行動力はすごいと思います。

 末子さんの日記で生活の苦しさがよく分かりますが、その中でも、投げやりになったり、なまけたりすることなく、精一杯がんばるところが、高一さんの本当にすごいところです。

E ひとまず、おしまいにしましょうか  

 末子さんの日記の、こんなところを読み取ってほしいと思って、いろいろと書いてきましたが、何から何まで紹介するのは無理なので、この辺でひとまず、おしまいにしようと思います。ぜひ、本を読んでください。大切なことをたくさん、感じることができると思います。

 末子さんはこのあとも、いくつかの家にあずけられたり、兄姉と別々になったり、病気になって入院したりしますが、中学1年生まで入野村(今の唐津市肥前町)でくらします。にあんちゃんが中学校(入野中学校)を卒業するときに、神戸に引っこしたようです。そこには、上の兄さんが働いていたのです。ここでやっと、4人そろって生活できるようになりました。

 この末子さんの日記「にあんちゃん」は、末子さんが中学3年生のときに出版されています。上の兄さんが、そのすばらしさを理解していたことがきっかけです。だから、やっぱり、4人の力を合わせることが大切だったのだろうと思います。

 入野小学校のみんなには、同じ学校に、こんな近くに、こんなに感動的な日記を書いていた女の子がいたことを、しっかり感じてほしいのです。

 もう何十年も前のできごとなのですが、小学生、中学生の末子さんに「つらかったでしょうね、でも、幸せになってください」と言いたくなります。

「にあんちゃん」に関する記事を掲載するにあたって

 入野小学校は「にあんちゃん」の作者である安本末子さんの出身校です。ぜひとも特設のページを作りたいと考えました。その際、著作権・プライバシー等の課題があると考え、安本さん本人に了承を得たい旨の手紙を書きました。折り返し電話があり、扱いについては好意的な返答をいただきました。

 電話の中で、日記は本になって自分の手を離れてしまったこと、しかし公開を目的として書いたものではないこと、既に半世紀の時が過ぎ遠い存在になりつつあること、マスコミや世の中に露出することは本意ではないことなどを伺いました。

 唐突に連絡をしたのに、丁寧に対応をしていただきとても感謝しています。ますます「にあんちゃん」に対する愛着が増してきます。安本さんの想いを尊重したうえで、記事を作っていこうと思っています。

(文責 HP担当)