天建寺橋![]() ![]() |
佐賀県道・福岡県道138号西島筑邦線のPC斜張橋。長さ426m。二基の橋脚(道路面からの高さ54m)。計80本のワイヤーで橋げたをつる斜張橋方式を採用し、楽器のハープを連想させる美しい橋である。 天建寺橋が建設される前までは、渡し船が運行されていた。三根東小校区では、坂口区と土井外区のみ、筑後川をはさんで福岡県側にある部分が存在するため、小学生なども通学時に渡し船を利用していた。しかし1950(昭和25)年2月13日、強風のため渡し船が沈没し、6人の小学生が亡くなった。このため、この区間に天建寺橋が建設されることになった。 建設された橋は車道と歩道が別々の橋になっていた。現在の天建寺橋は2代目の橋であり、初代の橋は、現在の位置よりもやや南に位置していた。初代の橋は車道がせまく、トラックと普通乗用車が離合するのはかなり厳しいものであった。 1999(平成11)年に新しい橋(現在のもの)が開通した。この橋は、旧三根町の町のシンボルとなっている。 |
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学童遭難之碑![]() 天建寺渡船場跡 ![]() |
学童遭難の碑より抜粋 昭和二十五年二月十三日朝、みぞれまじりの北風が九千部山から吹下ろしていた。対岸の学校へ通う児童達は、いつものように天建寺渡の舟に乗り込んだ。八時十分四十一人の児童達を乗せた舟があと二十米で川を渡りきろうとした時の出来事である。突然舟は横波を二度三度受け、冷たい水が舟内に浸水した。驚いた児童は総立ちとなり舟は大きく揺らいで転覆し、全員が寒中の川面に放り出された。そのうち、六人の児童は、遂に帰らなかった。あの日から三十八年、六つの御霊は、今静かにこの地にあって、筑後川の平穏と恵みを祈るかのように川面を見守っている。 昭和六十三年九月吉日 三根町 |
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六地蔵![]() |
土井外の納骨堂の境内に祭られている。台石の正面に刻まれている六名の氏名は、天建寺渡し「渡し船転覆事件」の際の犠牲になった児童の名前である。 |
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天建寺![]() ![]() |
鎌倉時代の正応元年(1288)の開山。明治7年(1874)の佐賀の役で薬師堂のほかの伽藍は官軍により焼き討ちにされた。本堂正面右側にある白檀の枯木は天建寺炎上当時の焼木で、「佐賀の役」の戦火を物語る唯一の遺物である。 |
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矢俣八幡神社![]() 馬場の道 ![]() 約束の松 ![]() |
元々は筑後川の近くにあったが、成富兵庫茂安による千栗土居の構築の際に、現在の場所に移された。500メートルにも及ぶ長い珍しい参道(馬場の道)がある。神社後方には「約束の松」がある。神社移転の際に、堤防工事と神社移転の成就を祈願して植えられた。現在の松は4代目である。それ以来松の木のある塚辺りを「約束」といい、近くにある橋に「約束橋」と名づけた。 矢俣浮立は、別名「たつた浮立」とも言われ、700年前から矢俣神社、葛城神社、天建寺のお寺に奉納される浮立である。その起源は、文永、弘安の役でかり出された人々に対し神仏の加護と冥福を祈って領主納江出雲守が天建寺を建立した際、住民が「お寺が建った、建った」と狂喜乱舞して喜び神仏を礼拝し、これが今日の矢俣浮立の起源とされている。 浮立の構成は本浮立(拝み浮立)、まくり浮立、道浮立からなり、道浮立については、鉦(かね)打ち並びにモラシは打ち手を肩車に乗せて移動する。
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ざりがに橋![]() |
みねクリーク公園内 |
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光浄寺![]() |
鎌倉時代末期、嘉暦2年(1327)の開山。室町幕府を開いた足利尊氏や、南朝方の征西将軍の懐良親王の祈祷寺であったり、足利12代将軍義晴によって「官寺」に列せられたこともある。また、中世期の北部九州の小弐氏の祈祷寺であり、小弐氏の支族西嶋城の横武氏の菩提寺であった。現在本堂裏には横武資貞の墓があり、その周辺には、横武一門の墓と思われる数基の墓碑がある。 |
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西の宮八幡神社![]() ![]() |
一条天皇の勅願で、長徳2年(996年)に建立された。横武氏が西島城を築いてからは、鎮守とし守護神としてあがめ、横武氏五代にわたって信仰した。入口にある高さ約3mの石造りの鳥居は、町の重要文化財に指定されている。数度の戦火で焼け、現在の社殿は明治13年(1880年)に改築されたものである。 西の宮浮立は、三養基郡内でも多く分布している行列浮立のひとつといわれ、鉦の音を象徴的に表しているのて、別名「ガンガン浮立」ともいわれている。起源については、農作祝いの浮立であるとの言い伝えがあり、数百年の昔から同じ形式で行われてきた。鍋島藩政期には、一切の費用を藩で負担し、祭礼当日は、鍋島家から警護頭人並びに目付、郡代等を出張させたという記録が残っている。 浮立の構成については、「しやーのけ」、「鉦(かね)」、「大太鼓」、「笛」の行列順番となっている。 |
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成富兵庫茂安公築堤功績碑![]() |
筑後川の流れと、一望に広がる美しい佐賀平野を眺めるように旧北茂安町と旧三根町の境に建立されている。茂安公は永禄3年(1560年)佐賀郡益田(現在の佐賀市鍋島町増田)に生まれ、龍造寺に仕え、のちに鍋島家の家臣となった。 武将として数えきれない功績をたてているとともに、土木・治水・築城にも功績が大きく、筑後川の洪水から佐賀平野を護るため、茂安公が旧北茂安町の千栗から旧三根町の坂口まで約3里(約12Km)にわたり堤防を築造した。 |
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