神野校区の歴史(昭和54年につくられた創立百周年記念誌「神野」より抜粋しました。)
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神野公園
弘化三年(1846年)に藩主鍋島直茂が別荘としてつくったもので、昔は「神野のお茶屋」と呼ばれていた。大正十二年(1923年)三月鍋島家から佐賀市に寄付された。(昭和四十八年版佐賀市史下巻)正門から入った所にある二棟の建物が当時の別荘で、園内には多布施川の清流を引いた池があり、築山は老松古梅その他の樹木が雅趣を添えている。市は公園として拡張し、終戦前には、今、水蓮の池の辺りに運動場が造られ、市内小学校の連合運動会も開かれた。戦後、更に拡張整備され、動物舎、小鳥舎、子ども遊園地などが造られ、江藤新平像、宮地喜六句碑、中島哀浪歌碑も建立され、築山西側の田んぼに西神野の農家の人々によって当時としては珍しいいちご園が作られ、一般に公開されたこともあったが今は交通公園となり、面目を一新した。市の内外の小学校一年生の春の遠足は、たいていここに来ることが多く、市民の憩いの場所として親しまれている。
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堀江神社
神野大明神ともいう。祭神は、景行天皇、神功皇后外十二柱の神。堀江神社の参道には松並木があった。今の参道入り口の鳥居は、もとは現在地より少し北にあった。学校の前の道ができ上がったのは大正十四年(1925年)であるが、その前はどうなっていたかというと、長掘橋をわたって、田中化粧品店の前から店の北側へ通ずる細い狭い道があるが、これが浮留江橋まっすぐにのびており、その道の南側は田んぼで北側が今のように運動場であった。今の広い道が、長掘橋から浮留江橋へできたので、古い道と新しい道との間も運動場になった。鳥居は、参道と田中化粧品店北側の狭い道との交差点のすぐ来たあたりにあった。
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多布施川
川上川の下流石井樋より分岐し、佐賀市街に入る川が多布施川である。西神野あたりでは、「ウーカウ(大川)」と呼び、水は清冽、川底には白砂、堤防には石井樋から青木橋下の大曲まで大きい松があり、文字通り白砂青松の川であった。大正十二年(1923年)神野公園が鍋島家から市に寄付されるや、堤防美化のため、神野公園北側の二挺井樋付近から大曲あたりまで桜や楓などが植えられた。各方面から贈られた苗木が市青年団、特に神野地区の青年団の手によって植えられ、本校の児童の手によって、この木々の成育と繁茂を願って募集された樹木愛護の標語木札が木々の枝に下げられた。夏には、川舟による舟遊びも催され三味線の音も聞かれた。川上、石井樋などへの遠足の帰りには石井樋から川舟に乗って招魂社まで下った小学校もあった。また昔は砂が上流からどんどん流れてきたので、採砂業者によって上げられ大水の出るのを防いだ。三月になると石井樋の堰を止め、河川の泥上げが行われる。これを川干というが、この時は、多布施川の近くの子どもは、シャツ、パンツ一枚になり、手に手にウットイ(網)、オンツキ(鉾)、テボ(魚籠)、バケツなどを持って、水の涸れた川床の白い砂を踏みながら水の淀みにひそむフナ、ハヤ、ドンコなどをとった。神野公園では池の泥上げがあったが、チャッポシコンゴという泥上げの方法で行われた。チャッポシコンゴというのは、泥上げ用の桶の両端にロープをつけ、ゆるめたり引っ張ったりして泥を上げる方法で、のんびりした作業であった。その頃の多布施川は、今より水が多くてきれいであった。飲料水として使われ、午前十時までは顔や手を洗うことを禁ぜられ、違反者で見つけられた者は、一円の罰金をとられたこともあったという。ところが今はどうだろうか。水は汚れ、堤防の松は、佐賀工業体育館東側の「松月」の一本松を残すだけとなり、松籟も聞けなくなった。草が生えて風情のあった岸も護岸工事ですっかり変わり、昔の面影はなくさびしい限りである。
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鏑流神社
三溝の氏神様であり、また守護神さまでもある。鏑流さん、または薮神様と呼ばれている。文武両道、五穀豊穣の神といわれ、堀江神社に合祀されていたこともあるという。お祭りは八月七日。堀江神社の松中宮司によると、祭神は流鏑馬(やぶかぶり)の神とのこと。鏑流神社の「鏑流」は、流鏑(やぶさ)ともいうが、その逆字流鏑馬(やぶさめ)がなまったとか。ご神体は、腐食しかかった神馬上に跨り、矢を持ち巻狩のいでたちのような勇壮な姿をしている。流鏑馬とは、騎射の一種で馬上でやつぎばやに射る練習として馳せながら鏑矢(かぶらや)で的を射る射技。笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)の姉妹競技で、平安末期から鎌倉時代に武士の間に盛んに行われた。佐賀県内の神社で今、流鏑馬行事が行われているのは、稲佐神社、武雄神社、黒髪神社の三社ということであるが、三溝に伝説であっても流鏑馬につながる鏑流神社があることは、郷土の誇りである。
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米搗きの水車
山村、山麓で多く見られた水車が、多布施川流域に五ヶ所もあった。今は、電気で精米したり製粉したりするが、昔は水車でしたものである。多布施川は、人工河川で両側の田んぼより川床が高く、灌漑用水に利用された関係で、多布施川から取水した用水路を利用し、水車の設置場所を深く掘り、水の落差を利用して水車を動かした。この水車は、大正末期電気精米が出現するまで使用された。水車の経営は勝手にはできなかった。明治十四年(1881年)十二月に「水車取り締まり規則」が県(当時は長崎県)から出された免許が必要であった。規則には「方三十間以内居住の人民及び飲料水又は作用水は勿論、水利上障碍なき旨関係人民又は其の人民総代の承諾書を添ふべし」とあり、今のような企業優先ではなく、地域住民の生活環境が良く考えられていた。
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子どもの生活の中のひとこま(魚取りのいろいろ)
(1)ジュブ(四つ手網)
佐賀では四つ手網のことをジュブといい、これで漁することをジュブ引きといった。大きな堀にアバ(網場)を作り、この漁をする人がいた。私の父は、浮留江橋の上流にアバを設け夏の雨後の増水した時や秋の水落ち時にはよくジュブを引いた。その頃は堀も深く水量も多く水もきれいでフナなどのほかに、有明海から上ってくるハクラやクロメ等もとれた。私はジュブをひく父に弁当を持っていき、網が上げられる時は、どんなものが入っているだろうかと胸をときめかしたものである。漁の多い時は、そのまま狭いアバに泊まりこみ、翌朝は走ってうちに帰り登校したこともある。
(2)テンチク針
針先が鋭い大きなもので、ドジョウ等の生餌を先にさし、夕方魚のいそうな所に投げ込み端を岸辺の草の根元などにしばりつけておき、翌朝あげに行った。糸がピンとはっておれば間違いなくかかっており、ウナギやナマズ等の時は、糸が菰や葦などにぐるぐるまつわりついてあげるのに苦労した。
(3)ドウケ
果物籠を押し付けたような形をしており、入り口に竹のハゼを、上に取っ手をつけてあった。夕方この底に米糠や醤油粕などを泥と練りこみ、魚の回遊しそうな場所を見つけて水中に沈め翌朝あげた。魚が入っておれば入れておいた餌がなくなっているので軽く、この時はあげる手に力が入った。時にはキャーツグロー(カイツブリ)が入っていることもあったが、これは死んでいた。
(4)ドジョウうけ
今は、ドジョウも少なくなり、養殖を計画されている時代である。夏、稲が大きくなると、水を張った田にこれを置く。ドジョウは畦ぎわを回る習性があるので、水口(みなぐち)が場所として良く、タニシを潰して入れておくこともあった。夕方仕掛けておいて翌朝あげる。うけの水面に泡がたくさん立っていたら間違いなく豊漁だ。中をのぞくと大きなドジョウがもつれ合いながら中に潜りこむ所謂「ドジョウの三っつんごろ」の様相を呈していた。
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子どもの生活の中のひとこま(ゴミホイ)
この行事は川干の頃行われた。今これが行われている所は機械化されている。堀の泥土揚げは、灌漑用水路であり、生活用水路でもある堀の清浄を保ち、浅くなるのを防ぎ、水田の肥料を得る大切な仕事であった。方法は堀を適当に区切り、両側にミチギ(足場)を組み渡し、その上に四、五人ずつ向かって乗り、少しいびつになったゴミ桶につけた親綱と子綱を引き、呼吸を合わせて桶を操作し、泥土をくみ上げる。堀の中では二人くらいが腰までつかり、カスイで泥水をかき集めて汲み上げ易くする。すべてが、呼吸を合わせ反動を利用しての操作であった。子どもたちは田んぼにあげられた泥の中の魚を泥んこになって手でつかまえたり、竹竿の先に貝杓子等をつけたものでとったものである。魚をとって意気揚々とうちに帰ると、泥によごれた衣服が洗っても落ちないとよく叱られた。
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子どもの生活の中のひとこま(ヤモ合わせ)
佐賀では銀ヤンマをヤモと呼ぶ。とりもち竿などでヤモを捕らえ、羽の間の胴を糸で結び、糸の先を1メートルくらいの竹竿にくくりつける。雄ヤモの飛んでいる堀に行き、これをおとりヤモにして頭上で丸く回す。おとりは雄雌どれでもよく、雄であれば縄張り争いのためかすぐ喧嘩しにくるし、雌であれば交尾せんとして近寄るので、その機を逸せずつかめるのである。これをヤモ合わせといった。捕まえたヤモは、ねずみとりや子鳥かごに入れ、意気揚々と帰って友達に自慢したものである。ヤモ合わせの呼び声は「ヤモッホー、ヤモッホー、メトンに目かけてござらんかん」であった。なお、ヤモの雄をオトン、雌をメトンといった。
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